マス岡田 のすべての投稿

後編

 結局レンタカー屋さんと連絡がついたのが翌朝9時。返却期限は前日の17:00だったから
この時点で延滞14時間となる。電話に出ているオペレーターは未返却と言い張るのだ。
そこで自分『駐車場に車があるか、確認して頂けませんか。』とお願いして一度電話を切った。

 普通のレンタカーの貸し借りの際は、返却時に書類(借りた時間。走行距離。料金が記載。)が発行されるが
中間業者が入っているため、書類が発行されてないのだ。

 待つこと数分。『ありました。こちらの手違いでした。』とお詫びの連絡が。どうやら返却受付の時に
端末の処理をしていなかったようだ。

 画面の状況を信じ、真横に車がある事に気が付かなかったとも言える。スマホ時代だから
皆、画面が正しいと思う傾向があるのではないか。クレームの電話をする前に、今一度駐車場を確認したり、
鍵の状況を確認すれば、お客に恥をさらす事もなかったと思う。

 ご用心。ご用心。(笑い)

レンタカー

 レンタカー。自分は四六時中、仕事で利用しているのだが大珍事が発生した。
16日15:30に車を返却し、会社経由で帰宅。21時過ぎにスマホに着信と留守録が・・・
『お車が返却されておりません。返却予定のご連絡をお願い致します。』とレンタカー屋さんから
肉声でメッセージが!後編に続く。

としまえん

 あと40分ほどすると20:00。豊島園の最期の花火があがるはずだ。
自宅は豊島園から徒歩10分に位置する。が、先ほど橋の上から豊島園の灯りを見て、お別れとした。
94年間お疲れ様でした。

 豊島園の一番の思い出は、生まれて初めてジェット・コースターに(豊島園ではサイクロンと呼んでいたと記憶する。)
乗った事だ。自分は父が遅い時の子供。その父に『肝試し。』と誘われ、よりによって一番前に乗車したのだ。

 今考えると10歳の自分に対し、父55歳。花火の音と共に亡き父を偲ぶ、八月の終わりである。

お店探訪140 深谷17号バイパス店

 皆様。お久しぶりです。マス岡田です。COVID-19の流行により自粛しておりました
お店探訪ですが、この度再開する事と致しました。6月からTwiの投稿を再び始め、7月からと
思っていたのですが、第二波の流行に対し、外出自粛の要請と共に何と言っても梅雨が長すぎ。
前回車で出かけたのが6月21日(日)だから、今日に至るまで6週間以上、一度もエンジンをかけていない有様。

 その間たっぷりとCOVID-19の勉強をさせて頂いた。それでも特効薬やワクチンがない状況に変わりはない。
飛沫感染の予防、手指衛生の徹底、3密を避ける。油断禁物。でも、今朝の『くにまるジャパン極』の野村さんには
正直驚いた。厚生労働省の接触確認アプリ(COCOA)から警告が入り、出勤を諦めて急遽自宅からリモート出演に変わった。
今まで経験のなかった様々な事が、これから起きて行くのだろう。『そんな年だった・・・』と言える未来が早く訪れるように。

 猛暑の中、車の始業点検を済ませてガレージを出たのが12:20。関越道を目指し練馬駅で信号待ちをしている時に
見慣れた風景の喫茶店がコロナ禍により閉店した事を思い出した。『喫茶アンデス』。自分は練馬生まれの練馬育ち。
コロナ禍とは関係ないが、自宅から徒歩10分の『豊島園』も今月末で閉園。なんだか寂しい。

 練馬ICまで渋滞もなく関越道を北上する。目指す花園ICの手前500mで路側帯の行列最後尾へ。
ICを出るのにここから20分もかかってしまった。原因は秩父方面に車が集中していたようで
逆方向の深谷方面はガラガラだった。140号線に入り田中(北)交差点を左折。中山道に入り深谷交差点を右折。
消防署の向こうが17号バイパスだ。左折してバイパスに入ると遠くに黄色の屋根が見えてきた。
深谷17号バイパス店だ。

 炎天下の中、汗だくになりながら店舗外観を撮影する。駐車場は広い。大型車が楽に入れる。
それにしても暑い、暑い。タオルで顔の汗を拭い、マスクを装着し、いざ、店内へ。

 時刻は14:20。まず入店して備え付けのアルコールで手指の消毒をする。深谷17号BP店は
入り口すぐに手洗い場があり、そこにアルコールも設置されている。
『いらっしゃいませ~。空いているお席へどうぞ。』先客はカウンターに一名。家族ずれがテーブルに二組。
右奥のテーブル席に陣取った。お冷を持ってきてくれた店員さんに、すぐに注文をする。

 厨房に向かって4席あるカウンターはソーシャルディスタンスを保つ為、真ん中二つが使用禁止。
レジには飛沫防止用の透明シートが天井から施されている。14:30を回ると厨房の奥から
『お先に失礼します。』と、お帰りの店員さんの声が。間もなく注文のメニューが運ばれてきた。

 『くるみだれ田舎そば』の撮影をしていると、久々の冷ややかな視線を感じた。
太麺のそばをくるみと醤油ダレ交互に堪能後、エビ天を口に運ぶ。自分は食通ではない。
が、エビ天はカラッと揚げられて衣サクサクで美味い。それはちくわ天も同じだった。
食事が終わるまで天ぷらがサクサクで暖かだった。

 久しぶりのお店探訪。視線は冷ややかでも、天ぷらは熱々の深谷17号バイパス店であった。

深谷17号バイパス店 埼玉県 深谷市 戸森
来店日 2020年8月9日 案山子Tシャツ&キャップ 反応度=×
くるみだれ田舎そば ¥720
走行距離=172Km

練馬駅前。閉店の喫茶アンデス。
練馬駅前。閉店の喫茶アンデス。
深谷17号バイパス店.
深谷17号バイパス店.
駐車場。広い!
駐車場。広い!
店舗正面から。
店舗正面から。
入り口はバリアフリー。
入り口はバリアフリー。
入り口直ぐにアルコール設置。手も洗えます。
入り口直ぐにアルコール設置。手も洗えます。
入り口側からレジ方向。
入り口側からレジ方向。
レジ前。
レジ前。
夏メニューのPR。全体的に綺麗にまとめられています。
夏メニューのPR。全体的に綺麗にまとめられています。
店内反対側から。
店内反対側から。
カウンター席。
カウンター席。
天ぷら美味しかった~!くるみだれ田舎そばです。
天ぷら美味しかった~!くるみだれ田舎そばです。
帰りに4年後から一万円札になる渋沢栄一記念館へ。
帰りに4年後から一万円札になる渋沢栄一記念館へ。
反対側には大きな銅像がたっていました。
反対側には大きな銅像がたっていました。

母の言葉

 5月に『蒲田店の思ひで』を投稿してから二月あまり。COVID-19に対して人類の
解決方法は模索の状態が続いている。何はともあれ、皆様も手洗い・うがい、3密を避けて
ウィルスから身を守る行動を。

 ここ数か月間の自分の事を書こうと、久しぶりにPCに向かっている。自分はプロの書き手では
ないから、書かないと本当に書けなくなる。定期的に書かざる得ない何かがあれば良いのだが。

 まず5月1日から出向し、新しい職場に背広姿で通勤している。自分はメーカー勤務なのだが
今までは工場巡りの生産サイド。私服で通勤し、会社で制服(作業着)に着替える生活だった。
出向先では同じメーカーでも販売サイドのお仕事。背広必須となっている。自分の配属部署は12名。当然ながら最長老。
20代前半の方々に揉まれながら仕事を楽しませてもらっている。ちなみに隣の部署は製品インストラクター
の部署で8割が女性。定年前のアラ還オヤジのいる場所なのかと何度も上司(約40歳)に尋ねたが
『岡田さん。いいんですよ!』とフランクなお答えが。まぁ何とか2月やってみて、どうにかなっているようだ。
強敵は、やはりスマートフォン。そんな訳で自分のガラホも5月末の更新時期にiphoneに切り替えた次第。
 
 マス岡田の背広姿は皆さん想像しにくいようで、最初に食らいついて来たのが何と江橋部長だった。
実は5月22日。蒲田店の最終日に会社帰りに駆け付けたのである。ノーネクタイではあるが背広姿で。
お店前は長蛇の列。満席の1Fを厨房前に駆け寄り、店長にある人物の所在を確認した。2Fとの事。
2Fに駆け上がり背広姿のマスクをしたハゲオヤジがサプライズ乱入。ある人物さんビックリ。
その日は、ある人物さんのお誕生日だったのだ。で、ささやかながらTシャツをプレゼント。
それにしても、ある人物さん、相当飲んでいたと報告させて頂きます。
閉店時間も過ぎて1Fのレジ前で店長と話をしていた時に店長の携帯が鳴った。(後に気が付いたが、自分にも着信ありだった。)
江橋部長からの電話だった。『マスさん。あの~その背広姿は・・・』答えは店内のモニターカメラだった。
本社の江橋部長は閉店時間の状況が気になってモニターで見ていたのだ。皆でカメラに手を振って、蒲田店の最後と相成った。

 車も無事車検を終え、エアコンの修理も完了した。カメラ機材の無くした部品も補充して
いつでも出かけられるように準備は整った。6月から週一ペースでTwiも山田ネタをアップ。
さて、出かけるかと思った矢先にまた外出自粛。(ステイ・ホーム?)気が滅入るが、ふと母の言葉を思い出した。

 母は90歳で健在だ。終戦を迎えたのが16歳だったはず。西池袋は焼夷弾で焼け野原。
母の実家は奇跡的に難をのがれたが、開戦から終戦後までの食糧難の話を思い出したのだ。
パン屋さんから品物が消えていく様。空襲で祖母と逃げ回った時の事を叔父(母の兄)の納骨式の
帰りに車中で話してくれたのだ。

 COVID-19との戦いは、焼夷弾が空から降って来るわけでもないし、食料も十分にある。
そう言った点では、かなり有利な戦いと思える。ウィルスは目に見えないけれど、
人との接触に注意し、手洗い・うがいで感染から身を守ることが出来る。現に先の冬場。インフルエンザの流行は早々と去った。

 夜の街やカラオケ。戦時中と比べると贅沢(余暇)との戦いなのかもしれない。